■ TV取材受けました

 

目標もなくただ毎日を過ごしていた日々

学校へ行かず、部活動にも所属せず、何も目標がなくただ毎日を過ごしていた中学3年生の夏、生徒指導主任の松本先生(名護ラグビー部OB)に無理矢理ラグビーの試合に出場させられる。人数がいないからと仕方なく出場した1回戦で、何もできずボロ負け。それまでスポーツは何でもすぐに出来てあまり負けることがなかった。自分が何もできずに負けたこの試合は、非常に恥ずかしく自分に腹が立った。ラグビーをしたいというより「負けたチームに勝ちたい。」という思いが強く、それから本気でラグビー部の練習に参加した。

「あいつらに勝つ!!」

という新しい目標ができた。練習するうちに、ボールを持って自由に走ることができ、合法的に人間と思いきりぶつかることができるラグビーの魅力にハマっていた。

 

ラグビーが自分を変えるキッカケに

中学最後の冬の大会、チームは順当に勝ち上がり決勝戦は夏に負けたチームとの再戦。夏に負けたとは思えないほどの圧勝で優勝。夏前には高校進学なんて考えてもいなかったが、この頃には高校でラグビーをやりたい。もっとラグビーをやりたい。と思うようになっていた。松本先生に相談したら、「名護高校だな。」と一言。自分では、進学校の名護高校を受験するなんて頭の片隅にも考えていなかった。

しかし、松本先生の一言を聞きラグビーやるなら沖縄県で1番強い名護でやりたい。と、わずか数秒間の会話でそう思い、名護高校を受験すると決心した。それから数ヶ月、周りの同級生に混ざり塾へ通い、受験勉強した。名護高校へ入学し、ラグビー部に入部し3年連続花園に出場した。1年の時はメンバーに入るが花園のピッチに立つことは出来なかった。

 

念願の花園のピッチに、でも・・・

2・3年生でスタメンになり念願の花園のピッチに立つことができた。
高校2年生になり、ラグビーも学校も辞めようかと悩んでいる時期があり学校も部活も休みが続くことが増えていた。学校をサボったある日、携帯電話が鳴った。宮城先生(ラグビー部監督)からの電話だった。

「今から家に行くから」・・・と言われ、数分後に迎えに来た。
車に乗り向かった先はファーストフード店A&Wの駐車場。

「学校とラグビーを辞めようと思っています。」・・・と伝えたら、
「お前がラグビー辞めるなら、このまま海に突っ込んで2人で死のうか。」・・・と、

太く落ち着いた優しい声と、突き刺さるほどの鋭い眼差しで言われたのは死んでも忘れることはない。宮城先生の迫力に返事もできず、ただ固まっていた。それからどんな会話をしたのか覚えていないが、翌日からまた学校へ行きラグビーをやる生活に戻った。

 

想定外のキャプテン任命

高校3年生、キャプテンに任命された。その年の周囲の下馬評は、「今年は負けるのでは?多分」「連覇は途絶えるだろう。」という声が多かった。キャプテンになった私はエネルギーの塊で、負ける気なんて少しもなかった。新人戦、インターハイと優勝できなかったが、厳しい夏の期間を乗り越え、9月の名護市長杯、花園予選と優勝し、無事に花園行きを決めた。

 

今も記憶に残る出来事

花園予選から花園本大会までの期間に起きた出来事が記憶に残っている。私の親友(ラグビー部員)が学校の規則違反をし停学処分になった。私は全く関係なかったが、親友からお願いされ口裏合わせをして、問題が起きた日時に親友と私は一緒に遊んでいたことにした。担任や学年主任、生徒指導担当、そして宮城先生にも呼ばれ、

「本当に一緒にいたのか」・・・と問われ
「はい、一緒にいました」・・・と答えた。
「もし嘘だったら、花園出場は辞退する」・・・と言われたが、
「一緒にいました。」・・・と嘘を突き通した。

結果は、別の友人が真実を話し嘘がバレた。
親友は停学になり、私は「なぜ嘘をついたんだ!」と叱られた。

花園に出るために必死の演技で謝ったが、内心は親友との約束を破るわけないじゃん。親友を裏切るぐらいなら、花園なんてクソくらえ。と思っていた。数日後に別の先生から聞いたが、あの出来事があった日、宮城先生が若手の教員を誘い飲みにいった時、「自分がしたことの責任を取らず、嘘をついたのは確かによくない。でも、男同士で約束し、その約束を最後まで守ったことは素晴らしい。男の約束って、そうでしょ。」と、言っていたらしい。とても感動したのを覚えている。確かにあの時、他の先生は何回も問い正してきたが、宮城先生だけは「本当か?」の一言だけだった。私が嘘をついているのを知っていたのだろう。でも口を割るはずない。「こいつに聞いたって無駄だ。」と思っていたのかもしれない。

きっと宮城先生には、私がそういう人間だと見透かされていただろう。そういう出来事もあり宮城博という男の魅力に惹きつけられ、「俺も教員になる。」と大学進学を決めた。

国際武道大学3年の2月、宮城先生から電話があった。内容は、当時、早稲田大学ラグビー蹴球部コーチだった後藤さんが電話したいと言っているから、この番号に電話して。とのこと。恐る恐る後藤さんに電話した。

「大学卒業後、どうするのか?」・・・という内容だった。
「沖縄に帰って教員を目指します。」・・・と返事した。
「沖縄でラグビー部の指導をやりたいなら、せっかくだから早稲田で勉強していかないか?」
「一度、上井草へ来い」・・・と誘われ、
ワセダクラブに就職することが決まった。

 

悪魔の合宿、後藤さんとの出会い

後藤さんとの出会いは、高校生1年の夏、毎年恒例の早稲田合宿で初めて会った。

1・2年時はあまり接点がなかった。3年の早稲田合宿、キャプテンだったこともあり話す機会が多かった。その中でも、合宿初日の練習後の会話が特に記憶に残っている。毎年地獄のような練習だったのに、初日にラグビーの練習が多く、走り込み(通称:走練)がなかった。部員のほとんどは、「あれ?」と、拍子抜けしたのと同時に、ホッと安心していただろう。
新人戦、インターハイと負けが続いており、危機感を感じていた私は、練習後にグラウンドをジョギングしている後藤さんに、「今日はなんで走らなかったのですか?もっとキツイことやらせて下さい。」と、今では考えたくもないようなことを言ってしまいました。その瞬間の後藤さんの「フッ」と、鼻で笑ったあの不気味な顔は忘れられません。案の定、翌日からの練習は例年以上に厳しく、辛い合宿となった。悪魔のような後藤合宿を乗り越えたチームは、夏から急成長し花園出場を掴んだ。

 

人生初のコーチ経験は小学1年生

ワセダクラブでは、ラグビースクールのコーチ、早稲田大学ラグビー蹴球部のコーチを経験することができた。人生初のコーチで担当したのは、小学1年生のコーチだった。

彼ら、彼女たちとの出会いが、私をコーチの道へと導いた。結局、小学4年時以外の5年間、彼ら・彼女たちのコーチを担当することが出来た。コーチとして右も左も分からない私を、底なしのエネルギーと溢れんばかりの笑顔でいつも励ましてくれた。気が付いた時には、子供達に会える日曜日を楽しみに、他の曜日を過ごすようになっていた。勝ったり負けたり、笑ったり泣いたり、グラウンドだけでなく私生活でもたくさんの時間を共に過ごし深い絆ができた。

 

子供達を誇りに思ったチャレンジマッチ

小学5年生の夏合宿、チャレンジマッチという1つ上の学年にチャレンジできる試合で、見事6年生に勝った。特に小学生は、1つ学年が違うと体格・パワー・スピード・理解力に差がある。コンタクトスポーツであるラグビーで、その時期に上の学年に勝つことは容易ではない。そのチャレンジマッチで、子供達の成長を強く感じた。第1試合のAチームは、エースG君の先制トライがあり善戦したが接戦で負けた。みんな、悔しくて泣いていた。それまでは、今までと変わらない光景だった。

しかし、そこからが違った。自分の試合直後、悔しくて悔しくて辛かったと思うが、Aチームのメンバーが次の試合を控えるBチームのメンバーのところへ行き、泣きながらも6年生と試合をして感じたこと、学んだこと、相手がこうしてくる。ここがチャンスだ。というアドバイスをしていた。それを間近で見守っていた保護者、コーチ、そしてこれから試合するBチームのメンバーもみんな涙を流した。

そして、Aチームの思いも引き継いだBチームは、何度もピンチをしのぎ、粘り強く何度も立ち上がり勇敢に戦った。そして、ノーサイドの笛が鳴る。見事、勝った。6年生に勝った。試合直後のBチーム、応援していたAチーム、汗と涙と泥だらけの子供達の顔はとても強く、そして優しかった。達成感に溢れていた。試合に勝った喜びよりも、Aチームの敗戦後の行動、そして勝利後にBチームがAチームのところへ行き、有り難うと言いながら抱き合う姿を見て胸が熱くなった。ラグビーの素晴らしさを改めて感じ、子供達を誇りに思った。

 

困難にぶつかった時、逃げずに逆境を乗り越える強さ

いよいよ、小学校最終学年の6年生になった。ワセダクラブでは6年時のみキャプテンを決める。そのキャプテンは、学年の代表だけでなくクラブの代表となる。ワセダクラブ小学生カテゴリーの顔となる。私の独断でNくんを任命した。

私は子供達に、
「しんどい時、辛い時など困難な問題にぶつかった時に逃げずにチャレンジし、逆境を乗り越える強さ。」
「自分よりも弱い立場にある人間に手を差し伸べる優しさ。」を持ったラグビープレーヤーになろう。と、常々言ってきた。

この学年は、勝っている時は自分たちの長所を出せるし元気もあり声も良く出る、が、先制点を取られたり、負け始めると一気に崩れ逆転で勝つことはほとんどなかった。小学3年時のチャレンジマッチでチームは、負けていてみんな元気がなく下を向いていたが、ただN君だけは違った。何本トライを取られても顔を上げ、視線の先は相手を見ていた。彼は不満そうな顔1つせずに淡々と最後まで戦っていた。そんな彼の姿を見て、インスピレーションを感じた。6年でキャプテンをするのはNだなと。

その日の試合後、N君にかっこよかったよ、6年の時にキャプテンを任せたいな。と話したのを覚えている。その後もN君は逆境な状況になればなるほど力を発揮した。決して逃げることはなかった。

 

指導者の言動の重み、責任を強く感じた

5年生の3月、来年度は誰がキャプテンになるんだろう。と、みんな気にしていた。私のなかでは順調に成長したN君に任せようと考えていた。本人にどう思っているのか聞くと、3年生の時に話したあの一言を覚えていた。あれからずっとキャプテンやるつもりだったと。鳥肌が立った。ほんの数秒の何気ない会話を覚えていたとは。彼がキャプテンになるのは必然だったのかもしれない。覚えていたことへの嬉しさと、指導者の言動の重み、責任を強く感じた。

 

日本一を目指して

キャプテンが決まり始動した最終学年、子供達が決めた目標は日本一。

2月に花園で開催されるヒーローズカップで優勝することだった。それまで私は、とにかく子供達にラグビーを好きになってほしい。今後もラグビーを続けてほしいという思いがあったので、勝利至上主義ではなかった。練習や試合時間もできる限り平等にし、全員が活躍できる機会を均等にする方針だった。試合時のメンバー編成も実力均等割りで、選抜メンバーを編成することは年に数回のみだった。しかし、子供達が決めた目標は日本一。6年時は、今までよりも勝ちを意識することを多くした。勝つためにやるべきことを問いかけ、時には厳しい練習をすることもあった。試合メンバーも実力順に編成することも多くした。

 

勝ち負けを意識して、大きく成長した子供達

結論から言うと、勝ち負けを意識させた方が子供達は成長した。単にラグビーの上達ではなく、人間として成長した。「しんどい時、辛い時など困難な問題にぶつかった時に逃げずにチャレンジし、逆境を乗り越える強さ。」「自分よりも弱い立場にある人間に手を差し伸べる優しさ。」それが自然に学べた。試合に出ていないメンバーに変化があった。それまでは、「ちゃんと試合を見なさい。遊ぶな。」など保護者から指摘されることが少なくなかった。しかし実力順でメンバー編成すると、出ていないメンバーが集中して試合を見るようになった。自分も試合に出たい。同じポジションのライバルはどんなプレーをしているのだろう。と、ただの応援ではなく自分がライバルに追いつき追い越したいという観点で見るようになっていた。出ているメンバーもそれを感じ、追い越されまいと今まで以上に必死になる。

 

高い目標設定で一人一人が成長し、全国大会出場へ!

今まで、自分がよければいい。という様な言動をすることがあったり、自分のことで精一杯という子供がいた。でも気付くと、みんな仲間への興味・関心が高くなり、子供同士でアドバイスしたり、意見交換したり、仲間の些細な変化にも気付ける様になっていた。

日本一になるという目標を達成するために、勝ち、負けという結果を意識することで今までより厳しくなった環境の中で、お互いを励まし合い、一人一人が成長し、チームも成長した。本当の意味で仲間になっていた。色々な出来事を乗り越え迎えたヒーローズカップ予選決勝戦。私は大学生の公式戦が重なり、子供達の試合に帯同することは出来なかった。

大学生の試合後、「子供達の試合どうだったかな?」と結果が気になっていた。携帯が鳴り、電話に出た。電話の相手はキャプテンN君、「銘苅コーチ、勝ちました!」と一言。後ろではみんなの喜んでいる声が聞こえた。コーチ不在での大事な試合、チームが1つにまとまり全国大会への切符を掴んだ。

後日、映像で決勝戦を観た。試合前、挨拶するために全員がグラウンド中央に整列する。グラウンドに入るS君とT君の姿を見て、「あ、これは勝つな。」と思った。2人はスタメンではなく控え選手だった。その2人のグラウンドへ入っていく後ろ姿がカッコよかった。誰よりも背中が大きかった。「お願いします」と、気持ちの入った大きな声で挨拶し、走って列に並ぶ2人は、画面を通してでも熱が伝わった。集中しているのが分かった。闘志をひしひしと感じた。控え選手で、試合に出るか分からないS君とT君の試合前の整列を見ただけで、勝ったことの理由が分かった。

全国大会を決めてからの2か月、中学受験で休んでいたメンバーも戻り、これまでよりもさらに密度の濃い時間を過ごした。メンバーから外れたり入ったり、失敗と成功を繰り返しながらそれぞれたくさんの試練を乗り越え、大きく成長した。

 

憧れの花園、全国大会1日目!

憧れの花園グラウンドに立った子供達は、これまで経験したことのないほど緊張しており、プレッシャーに押しつぶされそうになっていた。初戦、2回戦とガチガチに緊張したまま、持ち味を発揮できず苦しい試合展開となった。これまでなら、試合途中で相手のペースになった時点で、勝敗は決まっていたかもしれないが、強く逞しくなったチームは、諦めることなくシーソーゲームをものにし、無事に2勝することが出来た。

 

憧れの花園、2日目の準決勝!

相手は同じ関東のチーム。これまでも勝ったり負けたり、同点だったりの好敵手。お互い一歩も引かず好プレーの連続。会場にいる全員が息をすることさえ忘れるような激しい試合だった。結果は相手に軍配が上がり、日本一への道は断たれた。試合に出たメンバーも出ていないメンバーも、みんな号泣していた。子供達、保護者含め、チームの雰囲気は重く、立ち直れないほどのものだった。

 

チームで困難を乗り越え、全国3位に!

午後には3位決定戦がある。なんとか気持ちを切り替えて、最高のパフォーマンスができるよう、今やるべきことは何か考えた。昼食後、子供、保護者含めチーム全員を集めた。準決勝で敗れ目標としていた日本一にはなれない。それは現実だし、今後も変わらないこと。でも、数時間後には3位決定戦がある。目標達成できなかった、本当に悔しくて辛いのはみんな同じ。このチームは今、困難にぶち当たっている。こういう厳しい時こそ前を見よう。今、自分にできることは何かを考えよう。もう一度心を一つにして、チーム一丸となって3位決定戦でベストパフォーマンスをしよう。と、話した。返事こそなかったが、子供達は静かに頷いていた。

それからあっという間にW-upの時間がきた。子供達の切り替えたはずの気持ちだったが、どこか空元気で心ここにあらず。という状況だった。それほど敗戦のショックは大きかったのだろう。どうにか暗い雰囲気をかえたいと思い、W-upの途中で全員集めた。

「みんな、身体が動いていないぞ。」
「もう花園になれたでしょ?」
「元気出していこうよ、」
「なぁ、S君!」・・・と、

チームのムードメーカーS君にふると、拍子抜けした明るい声で、
「ぱ〜い♪」・・・と、最高の返事。全員、大爆笑。

S君は私の気持ちを悟って、わざと100点満点の返事をしたのだと思う。天才だ。
そのお陰で、肩の力が抜け、いつもの明るさが戻り、チーム内にエネルギーが充満した。キックオフの笛からノーサイドの笛が鳴り響くまで、縦横無尽に花園のピッチを走りまくった。

まさに、ベストゲームだった。結果は完勝。数時間前には悔し涙を流しどん底にいた子供達の顔は、嬉し涙でくしゃくしゃになっていた。握手し合い、抱き合い、お互いの健闘をたたえ合った。目標は達成できなかったが、ここまでの過程は、素晴らしく、日本一価値のあるものだと確信した。

中学生になり、ラグビーを続けている子、新たな道に進んだ子、たくさんの教え子たちとは、今でも連絡を取り合っている。

  • [ プロコーチとしての活動 ]
  • ・デイゴ ラグビースクール(代表)
  • ・ARUKAS QUEEN KUMAGAYA(アシスタントコーチ)
  • ・沖縄県立名護高等学校ラグビー部(外部コーチ)
  • ・九州産業大学付属九州産業高校ラグビー部(スポットコーチ)
  • ・三重県立朝明高等学校ラグビー部(スポットコーチ)
  • [ 経  歴 ]
  • ・平成18年3月:沖縄県立名護高等学校 卒業(ラグビー部 主将)
  • ・平成22年3月:国際武道大学 卒業(ラグビー部 副将)
  • ・平成22年4月~平成28年3月:ワセダクラブ ラグビースクールチーフコーチ
  • ・平成22年4月〜平成27年2月:ワセダクラブ ラグビーアカデミースキルコーチ
  • ・平成24年2月〜平成30年1月:早稲田大学ラグビー蹴球部コーチ(平成27年1月 ヘッドコーチ就任)

沖縄のデイゴラグビースクール 代表 銘苅信吾
お問い合わせ先:090-6777-3032|E-mail:deigo.rugbyschool@gmail.com
活動場所:名護市21世紀の森ラグビー場|住所:沖縄県名護市大南2-1-25